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1995年阪神・淡路大震災
ENJAES

1995年1月17日の夜明け前、神戸はまだ眠っていた。人口150万人の都市はまだ新しい一日を始めていなかった。会社員、学生、布団の中の高齢者——阪神高速道路が30年にわたって街の頭上に立ち続けていた。16秒後、そのうちの635メートルが崩れ落ちた。

M6.9の地震——日本では阪神・淡路大震災として知られる——は、神戸市中心部から南約20キロ、淡路島北部直下の横ずれ断層で発生した。深さはわずか16キロと浅く、エネルギーは神戸・芦屋・西宮を結ぶ北東方向の狭い回廊に集中した。6434人が死亡し、4万3000人以上が負傷した。十分な備えがあると思われていた都市が、一つの冬の朝に30万人の住民を路頭に迷わせた。

1995年阪神・淡路大震災の被害
阪神・淡路大震災、1995年1月17日——6434人死亡、30万人が家を失い、16秒で都市の景色が一変した

足りなかった建築基準

阪神高速3号線の崩壊は、単なる惨事であると同時に一つの診断だった。1960年代に建設されたその橋脚は、1981年以前の耐震基準に基づいて設計されていた。建物が大地震後も倒壊しないことを要件としながらも、構造的機能を保ち続けることまでは求めない旧基準のもとで作られた短く太い橋脚は、水平力に耐えられず座屈した。高速道路は70度傾いて落下した。

日本は1981年に建築基準を改定した。新耐震基準では、建物が大地震後も構造的に無傷であり続けることを要件とした。神戸は残酷な自然実験の場となった。1981年以前の集合住宅が倒壊する一方で、隣の1981年以降の同規模の建物は損傷を受けながらも立っていた。生存率の差は明確で紛れもなかった。どの建物を改修し、どれを放置するかという何十年もの政策判断が、今や瓦礫の中に刻まれていた。

関連する破壊形態として「ピロティ崩壊」がある。1階が柱だけで支えられた吹き抜け構造——駐車場や商業スペースに転用されたケース——は、上階の居住フロアに比べて横方向の剛性が著しく低かった。神戸では数十棟の集合住宅がまさにこの形で崩壊し、上階が下の空間に落ちていった。

水のない街の火事

数時間のうちに150か所以上の火災が市内に広がった。壊れたガス管が倒壊した建物に漏れ出し、1月の日本の家庭に一般的な石油ストーブが瓦礫の中に倒れ、切断された電線が残骸の中で火花を散らした。火災はあまりにも広い範囲に、あまりにも同時多発的に起きた——どんな消防部隊もこの規模を通常の条件では対処できない。

状況は通常ではなかった。被災地全域の水道管が、建物を倒壊させたのと同じ力によって断裂していた。消防車が到着したが、消すための水がなかった。長田区では密集した木造住宅が街区単位で燃え広がった。最後の火が消えるまでに、倒壊で失われた建物に加え、火災だけでおよそ7500棟の住宅が失われた。構造的な崩壊と火災と水道網の壊滅が重なった被害は、単一の原因だけでは説明できないほどの規模だった。

ボランティア元年

日本の自衛隊は、政府の正式な要請なしに国内へ迅速に展開するうえで、憲法上・政治上の制約を抱えていた。地震後の最初の数時間、その制約が対応を遅らせた。兵庫県知事が自衛隊の派遣を正式に要請したのは地震当日の午前中だったが、相当数の部隊が到着したのは午後になってからだった。その空白を埋めたのは神戸の市民自身だった。

その後の数週間・数ヶ月で、全国から推定130万人のボランティアが神戸に集まった——学生、退職者、休暇を取った働き手たち。避難所で活動し、瓦礫を片付け、生存者を支えた。1995年は今も日本で「ボランティア元年」と呼ばれている。この経験が防災インフラの深刻な欠陥を明らかにし、自衛隊の国内緊急役割を拡大し、日本の災害対応の枠組みを根本的に再編する法整備につながった。

遺されたもの

日本の阪神大震災への対応は包括的だった。同年、「建築物の耐震改修の促進に関する法律」が制定された。全国の自治体が1981年以前の建物の調査を始め、改修補助金は拡充されていった。中央防災会議が改組され、省庁間の連携が改善され、自衛隊の国内緊急役割が明確化・拡大された。

明石海峡大橋——地震を引き起こした活断層の真上で神戸と淡路島をつなぐ橋——は1998年に完成した。工事中に地震が発生し、主塔が数センチずれて最終的なスパンが約1メートル長くなった。設計耐震強度はM8.5。エンジニアたちはその断層の正体を知りながら橋を架けた。知らなかったのは、建設中に断層が動くということだった。

阪神・淡路大震災は、M6.9——M8.0の約30分の1のエネルギー——でも、浅く直下型で密集した都市回廊に沿って走る断層であれば壊滅的な被害をもたらし得ることを示した。教訓は、日本がより大きな地震に備える必要があるということではなかった。都市の直下で起きる中規模の地震が、すでに十分に大きいということだった。
震源は神戸市中心部から南約20キロ、淡路島北部直下に位置した——浅い震源と神戸都市回廊に沿った断層の向きが被害を北東方向に集中させた
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