リアルタイム地震モニター ·
USGSデータ
1908年12月28日、月曜日の午前5時20分。メッシーナ海峡が揺れた。海峡の幅は最も狭い箇所でわずか3キロメートル——シチリア島とイタリア半島の「つま先」を隔てる細長い水路だ。シチリア側の海岸には、シチリア最大の港湾都市メッシーナ(人口約15万人)が眠っていた。対岸のカラブリア側にはレッジョ・カラブリア。両都市とも、まだ眠りの中にあった。
揺れは約35秒続いた。それが終わったとき、7万5000人から20万人が命を落としていた。その幅の大きさは誇張ではなく、死者を数えるはずだった建物も記録も、多くの人命も、同時に失われたことによる。議論の余地がないのは一点だけ——1908年のメッシーナ地震は、ヨーロッパの記録史上、最も多くの人命を奪った地震であるということだ。
この地震がこれほどの被害をもたらしたのは、マグニチュード7.1という規模のためではない——世界規模では特別に大きいわけではない。問題は、震源の場所にあった。震源はメッシーナ海峡の真下。メッシーナとレッジョ・カラブリアが同時に最大の揺れに見舞われた。「震源に近い側」も「遠い側」も存在しなかった。
メッシーナでは建物の90%以上が崩壊した。レッジョ・カラブリアでも約65%が倒壊した。倒れたのはほぼすべて、横方向の力に対応できないモルタルで固めた無補強石積み組積造建築。天井が先に落ち、人々は寝床の中で押しつぶされた。壁が倒れ、屋根が崩れた。
地震から10分以内に、海峡の両岸を津波が襲った。波高は場所によって6〜12メートルに達した。崩壊する建物を逃れて海岸へ走った生存者たちは、沖へと引いていく海面を目にした——そして波は戻ってきた。
津波は、揺れを生き延びた何千人もの命を奪った。救助船が海岸に近づけるようになるまで数時間かかり、到着したとき岸壁は消え、建物は押しつぶされ、街路は瓦礫と水で埋まっていた。
1908年の災害で、多くの人が知ると驚く事実がある。最初に組織的な救助活動を行ったのは、イタリア当局ではなくロシア帝国海軍だったことだ。
親善訪問のためメッシーナ港に停泊していたロシアの軍艦4隻——スラヴァ、ツェサレーヴィチ、アドミラル・マカロフ、ボガトィリ——の水兵たちは、地震発生直後に上陸し、素手で瓦礫を掘り始めた。艦上に野戦病院を設置し、数日間で2000人以上の生存者を救出したとされている。
イタリア政府の対応は遅れた。通信線は寸断され、ローマでは被害の全容が把握できなかった。イタリア軍の救助隊が到着したとき、ロシアの水兵たちはすでに何日も作業を続けていた。イタリアはのちにメッシーナ近郊にロシア水兵を称える記念碑を建立した——外国の救助隊員を称える世界初の記念碑といわれている。
地震から2ヶ月も経たない1909年2月、イタリア政府は勅令第193号を制定し、同国初の耐震建築基準が誕生した。高リスク地域を耐震ゾーンに指定し、建設基準を定めた本格的な対応だった。
しかし、基準の制定と施行は別物だった。イタリアでは歴史的に、耐震法令の整備が現場への普及に追いつかなかった。1915年アヴェッツァーノ(死者3万人)、1980年イルピニア(死者2900人)、2009年ラクイラ(死者309人——その後の地質学者の刑事訴追がまた別の「震災」となった)、2016年アマトリーチェ(死者299人。耐震補強の公的資金を得ながら工事が完了していなかった)。
基準はメッシーナから生まれた。しかし、それが解決しようとした問題——持ちこたえさえすれば生き残れたはずの建物に命を奪われること——は、その後117年を経た今も、完全には解決されていない。
今日、海峡に面するメッシーナは「三代目の都市」とも呼ばれる。1783年の地震で一度、1908年の地震でもう一度、都市は根本から作り直された。1908年の地震は二代目メッシーナを完全に破壊し、その後に生まれたのは、より広い街路と低い建物を持つ、実質的に新しい都市だった。復興には数十年かかり、住民は何年もの間、仮設住宅で生活した。
12月28日はいまもメッシーナ地震の記念日として残っている。1908年の地震は教科書の中の日付ではない——都市の低い建物が、広い街路が、その形そのものが、あの35秒を記憶している。メッシーナの形は、あの夜を生き延びたものの形だ。